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おれ
年齢:
40
性別:
男性
誕生日:
1983/08/19
職業:
院生
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隣人を愛すること
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はじめに言っておきます。今更ですが。
自分でも大昔から自覚してますし、最近特に指摘されることが多いですが、私は基本的に否定します。自分の考えに沿わないことに関しては、言い過ぎだってくらい否定します。それはあくまで自分の意見であって、これが世間一般で正しいんだとは一言も言ってません。自分はこう思っていると意思表示しているに過ぎません。
以下ただの備忘録です。
このスペースはもはやその程度の扱いです。
最近就職活動なぞやっていて思うことが多々ございまして、やっと考えがまとまりました。
考えていたことというのは、いつものごとく、原因不明の違和感を感じる行為に何故違和感を感じるのかということです。
はじまりは、学生のあまりにも節操のない就職活動に違和感を覚えたことです。
とりあえず面接の練習で受ける、とか、無理やり志望動機をつくらなきゃ、とかそういうのってどうだろうか、と。
面接の練習がしたきゃ担当の教授に頼めよ。
志望動機がないなら受けるなよ。
とまぁ思うわけだけど、みんなしてるしみたいな感じで引っかからない人が多いんだろうな。
オレなんかはこういう人みると、なんて失礼な人間だと思うわけです。
確かに利用できるものを利用して、要領よくやってきゃ自分の望みはかないやすいでしょう。
特にそれを縛るルールも別に無いわけだし。
でも、恥ずかしいと思わないのか?自尊という言葉の意味を知っているのか?と言いたくなる。
志望動機がないってのには、面接で言える志望動機がないも含まれます。
つまり、給料がいいから、とか、一般にえっ?それだけ?みたいな感じのヤツね。
間違いや過ちとまでは言わないまでも、正しい行いでもないと思います。
他人様に胸を張って言えないことは、それすなわち自分自身が良くないなとかこれ言ったら印象悪いだろうなとか思っているからで、それは自己規律心をもって姿勢を正しましょうよと思うのです。
私が違和感を感じていたのはそこです。
自尊と自己規律。
KO大学の人が聞いたら喜びそうだけど、まぁその2つが大事な気がする。
日本は恥の文化だといわれます。
恥の文化というのはつまり、他人に写る自分は恥ずかしくないかどうかを判断基準として持っている文化ということです。
他人にどう思われてもいい、自分がよければそれでいい。
それはそれでいいんじゃないでしょうか。
でも、私は絶対にそんな風には生きません。
恥の文化とは自尊と自己規律に満ちた文化です。
自己にしっかりとルールを課し、それを遵守することで自己の品格を保つ。
品格で飯は食えません。
でも、今の日本で心身ともに健康で理系大学院を修了予定である私が、飯が食えない状況に陥る可能性は結構低いです。
それならば、自己の品格を失ってまで、上手く生きるために正しくないことをするのはやめるべきです。
私たちはもうすぐ何にも縛られなくなります。
法律以外は何者も縛ってくれません。
っていうか、今既に凄く自由な立場にいます。
これに自活できる生活力がつけば、本当に自由な立場です。
自由な状況になったときに、自己を律することができるかどうかでその人の将来像がみえるような気がしてます。
私は損な生き方だと言われようとも、自分で自分のことを恥ずかしい人間だと感じる生き方はしたくない。
だから、私は節操の無い学生に対して断固ノーと言います。
それが個人の考え方の自由であっても、私の関わる人、特に仲の良い友人であればなおさらのこと、ノーと言います。
正直言って、私は自分を律することができているとは言いがたいです。
でも、少なくとも、これまで述べた理想はもっています。
よく、理想論であって現実はそんな簡単じゃないとかいつまでガキみたいなこと言ってんだとか言いますが、理想も言えないくらいなら大人になんかならなくていいよ。
むしろ、理想もないやつは大人として危険だと思う。
その理由は、さっきも言ったけど、大人はできることが大きい。
ある意味なんでもできるし、その実行力を身につけてる。
そういう大人だからこそ、理想をもって生きてかないと世の中大変なことになると思う。
だからオレは、理想がないやつは大人になるなって逆に思う。
オレにはあります。
以上、備忘録でした。
自分でも大昔から自覚してますし、最近特に指摘されることが多いですが、私は基本的に否定します。自分の考えに沿わないことに関しては、言い過ぎだってくらい否定します。それはあくまで自分の意見であって、これが世間一般で正しいんだとは一言も言ってません。自分はこう思っていると意思表示しているに過ぎません。
以下ただの備忘録です。
このスペースはもはやその程度の扱いです。
最近就職活動なぞやっていて思うことが多々ございまして、やっと考えがまとまりました。
考えていたことというのは、いつものごとく、原因不明の違和感を感じる行為に何故違和感を感じるのかということです。
はじまりは、学生のあまりにも節操のない就職活動に違和感を覚えたことです。
とりあえず面接の練習で受ける、とか、無理やり志望動機をつくらなきゃ、とかそういうのってどうだろうか、と。
面接の練習がしたきゃ担当の教授に頼めよ。
志望動機がないなら受けるなよ。
とまぁ思うわけだけど、みんなしてるしみたいな感じで引っかからない人が多いんだろうな。
オレなんかはこういう人みると、なんて失礼な人間だと思うわけです。
確かに利用できるものを利用して、要領よくやってきゃ自分の望みはかないやすいでしょう。
特にそれを縛るルールも別に無いわけだし。
でも、恥ずかしいと思わないのか?自尊という言葉の意味を知っているのか?と言いたくなる。
志望動機がないってのには、面接で言える志望動機がないも含まれます。
つまり、給料がいいから、とか、一般にえっ?それだけ?みたいな感じのヤツね。
間違いや過ちとまでは言わないまでも、正しい行いでもないと思います。
他人様に胸を張って言えないことは、それすなわち自分自身が良くないなとかこれ言ったら印象悪いだろうなとか思っているからで、それは自己規律心をもって姿勢を正しましょうよと思うのです。
私が違和感を感じていたのはそこです。
自尊と自己規律。
KO大学の人が聞いたら喜びそうだけど、まぁその2つが大事な気がする。
日本は恥の文化だといわれます。
恥の文化というのはつまり、他人に写る自分は恥ずかしくないかどうかを判断基準として持っている文化ということです。
他人にどう思われてもいい、自分がよければそれでいい。
それはそれでいいんじゃないでしょうか。
でも、私は絶対にそんな風には生きません。
恥の文化とは自尊と自己規律に満ちた文化です。
自己にしっかりとルールを課し、それを遵守することで自己の品格を保つ。
品格で飯は食えません。
でも、今の日本で心身ともに健康で理系大学院を修了予定である私が、飯が食えない状況に陥る可能性は結構低いです。
それならば、自己の品格を失ってまで、上手く生きるために正しくないことをするのはやめるべきです。
私たちはもうすぐ何にも縛られなくなります。
法律以外は何者も縛ってくれません。
っていうか、今既に凄く自由な立場にいます。
これに自活できる生活力がつけば、本当に自由な立場です。
自由な状況になったときに、自己を律することができるかどうかでその人の将来像がみえるような気がしてます。
私は損な生き方だと言われようとも、自分で自分のことを恥ずかしい人間だと感じる生き方はしたくない。
だから、私は節操の無い学生に対して断固ノーと言います。
それが個人の考え方の自由であっても、私の関わる人、特に仲の良い友人であればなおさらのこと、ノーと言います。
正直言って、私は自分を律することができているとは言いがたいです。
でも、少なくとも、これまで述べた理想はもっています。
よく、理想論であって現実はそんな簡単じゃないとかいつまでガキみたいなこと言ってんだとか言いますが、理想も言えないくらいなら大人になんかならなくていいよ。
むしろ、理想もないやつは大人として危険だと思う。
その理由は、さっきも言ったけど、大人はできることが大きい。
ある意味なんでもできるし、その実行力を身につけてる。
そういう大人だからこそ、理想をもって生きてかないと世の中大変なことになると思う。
だからオレは、理想がないやつは大人になるなって逆に思う。
オレにはあります。
以上、備忘録でした。
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